佐藤太清

略歴

1913年 (大正2年) 11月福知山に生まれる
1927年 (昭和2年) 福知山実践商業学校卒業
1943年 (昭和18年) 第6回文展「かすみ網」初入選
1947年 (昭和22年) 第3回日展「清韻」特選
1966年 (昭和41年) 第9回日展「風騒」文部大臣賞受賞、
翌年日本芸術院賞受賞
1980年 (昭和55年) 日本芸術院会員となる
1988年 (昭和63年) 文化功労者に列せられる
1992年 (平成4年) 文化勲章受章
1993年 (平成5年) 福知山市名誉市民となる
2004年 (平成16年) 11月 逝去、
従三位に叙せられる

佐藤太清画伯年譜画伯の言葉ポートレート

佐藤太清画伯

◆ プロフィール ◆

おいたち

佐藤太清は、1913年(大正2年)に京都府福知山市で生まれました。
太清の人生の始まりは、母親のおなかの中にいる時に父親を亡くし、誕生直後には母親をも失ってしまうという悲しいものでした。寂しい少年時代を過ごした太清でしたが、福知山の自然の中で自分を見つめ、その想いは次第に絵を描く事に向けられてゆきました。

青年期

1931年(昭和6年)絵の道を諦めきれずにいた太清は、一人上京し、後の恩師となる児玉希望先生と運命的な出会いを果たします。昭和8年から児玉希望塾の内弟子になり、本格的な日本画の修業を始めました。20歳の時でした。

初入選

昭和14年の召集、召集直後の発病、入院、召集解除。病が癒えるまで生死の境をさまよった時期もありましたが、昭和18年第6回新文展に出品した≪かすみ網≫が初入選し、30歳になった太清はようやく日本画家としてのスタートをきります。

壮年期

スタートが遅かった分、それからの努力は超人的なものがありました。昭和27年には、日展出品のために≪睡蓮≫を2点と≪罌栗≫を制作。日月社展*のためには≪雨の日≫と大作を4点制作しました。そのうちの1点の≪睡蓮≫、≪罌栗≫を日展に出品。≪睡蓮≫は特選及び朝倉賞を受賞。≪雨の日≫も奨励賞を受賞しました。
日展に出品した≪睡蓮≫は残念ながら現存していませんが、もう1点の≪睡蓮≫は当館にて所蔵しております。

*日月社 1950年(昭和5年)児玉希望門下、伊東深水門下、矢野橋村門下が合流し結成された合同展。

花鳥風景画家としての道

昭和41年新日展に出品した≪風騒≫は、野田の鷺山で急な夕立と大風から雛鳥を守ろうとする親鷺の狂おしいまでの姿を描き、文部大臣賞、日本芸術院賞の2つの賞を受賞するという大きな評価を得ました。
この作品を始まりとして、写実的な風景画の中に緻密に描いた花鳥画を投入するという極めて難しい花鳥風景画の分野を太清は確立してゆきます。また、太清の筆の特徴であるうすい彩を何度も何度も重ね上げ、独自の色彩感、立体感をあらわす技法もこの時期から顕著にみられるようになります。

一期一会の世界

昭和55年第12回日展に≪旅の朝≫を出品。太清の代表作であり、また太清の代名詞でもある10作の「旅シリーズ」は、この作品から始まります。
旅先で自然が一瞬、そっと見せてくれた花や鳥、雪や風との偶然の出会いを、太清は「一期一会の世界」とよび、大事に心で暖め10年に渡り作品にしてゆきました。この10年の間に太清は、日本芸術院会員、日展事務局長、日展理事長、文化功労者と作品制作以外の重責も加わる事になってゆきます。
「旅シリーズ」におきまして当館では、≪最果ての旅≫、≪旅途≫、≪旅雁≫を所蔵しております。

旅の終焉

平成4年第24回日展に≪行雲帰鳥≫を出品。旅からの帰省を暗示させるような作品を発表後、太清は文化勲章を受章します。そして、その2年後に出品した≪佐田岬行≫では、花や鳥も姿を消した無機質でさみしげな灯台と朧月を描き、それはあたかも太清の旅の終焉をあらわしているかのようでした。

晩年

平成6年第26回日展に≪雪つばき≫を出品。自宅の庭に咲く椿を、太清独自の技法による最も得意とした雪、愛した鳥を添えて描きました。この作品で、昭和18年から51年間休むことなく続けてきた日展への出品は最後となりました。83歳でした。

翌年、太清は腹部大動脈瘤の手術を受け、体力的に大変厳しい状況となりました。「鳥の羽一本一筋。鳥の黒眼の位置。少しでも自分の思うように描けなくなったら、自分は絵を止める。」常々話していた太清は作品の制作を断念します。
そして、太清が若い頃、絵の道を諦めきれず上京した時代を想い、若い世代への美術の奨励として、平成14年に「福知山市佐藤太清賞公募展」(全国公募 福知山市主催)と、「佐藤太清記念中学生絵画展」(全国公募 板橋区主催)の開催のために尽力しました。
91歳の誕生日まであと4日であった平成16年11月6日逝去。従三位に叙せられました。
恵まれない幼年時代、不遇な青年時代をものともせず、常に自然を愛し、真摯に作品制作と向き合った姿や、晩年、後進育成のために努力を惜しまなかった生き方は、のこされた作品に息づき、私達に力を与え続けてゆく事でしょう。

◆ 画伯の言葉 ◆

自然とにらめっこして、自然以上を作る。そこが難しい。

自然は感動に満ちています。
厳しさがあり、優しさがある。畏れがあり、慈しみがある。
謙虚に対話を重ねると、自然は様々な顔を見せてくれます。
出合いの感動を画室に持ち帰り、
自然とわたしの意志がひとつになるまで、長い時をすごします。
これが、わたしにとって苦しく、
そして楽しい時間でもあるのです。

「安らぎ」は、物質だけではえられないもので、心の豊かさと、
自分を見つめる信仰のようなものから生まれてくるものではないでしょうか。
描きたいものがどんどん出てくること、それが生きがいであり、
生かしてくれる源だと思います。

花に想う

今年のような暖かい冬は、寒さによわい私にはすごしよかったが、花木などは少し様子が違ったようで、梅なども早々に咲き、いつの間にかうらうらと散ってしまった様な気がする。

冬に咲く花は梅にしても寒椿にしても、峻烈な寒気に堪えて、ポツリポツリと咲きはじめ、ことに夜来の雪に覆われた紅梅や寒椿などは、まことに美しいものである。

今は梅も沈丁花も終り、椿も盛りをすぎて、寒い間常盤木のあいだで枯木の様だった枝に、ライラックや蘇芳の蕾を発見して、ハッと驚くことがある。季節が来れば咲き、時期が来れば散る花々は実に淡々としている。年々歳々花相似たり 年々歳々人同じからずと言うが、今年も春にさきがけて友を失ない、落花の無惨な美しさに心をひかれ、無常感にうたれる。

桜で思い出すのは数年前、山陰方面の旅で日暮の丹波路を歩いていて、黒群青色の山あいに1本満開の山桜の、幽玄で神秘的なたたずまいを見た時である。その後、今一度見たいと思い、同じ頃の季節に何度も出かけ探し歩き、里の人にも聞いてみたが、今だに見つからない。漂泊の旅に見た幻の桜だったのかも知れない。一期一会の厳しさを感じる。大和路の旅では大野寺の樹齢何百年と言うしだれ桜を写生に行き、4、5日通い、最終の日、花開いて風雨多しと言うが、夕方驟雨にあい、帰る車中から見た長谷寺の雨中の桜も美しく、夢の様な気がしてもう1度行って見たいと思っている。

朝顔の咲く頃になると、先年までよくマッサージに来てもらった全盲の老人のことを思い出される。その人は少年の頃、下谷の根岸辺りで育ち、小学4年生の朝顔の咲く頃に、ふとしたことで失明して、以来今でも心の眼にその当時のすがすがしい夏の朝の垣根に咲いていた朝顔が美しく残っているとはなしながら、今頃は美しいでしょうねと、遠い悲しい昔を追憶する様に虚空を見ていたことがある。私もその話しを聞き、胸のつまる思いがして、この老人の心にある様な朝顔の花が描ける様になりたいと思っている。

小さい我が家の庭にも牡丹の蕾がふくらみはじめた。年のせいか世のそうそうに追われ、あっと思う間に日がすぎてゆく様な気がするが、今年はしっかり写生をしたいと思っている。写生をする時は、いつもあの盲目の老人の話を思い出しながら、目の見えることを感謝し、対象を素直に見つめ、感動の真実をじっくりつかみたいと思う。それがまた永遠の初心に通ずることだと思うが、その当たり前のことが、なかなか出来ないものである。1979(昭和56)

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◆ ポートレート ◆

画室での風景
スケッチに取り組む画伯
縁側にて愛犬とふれあう
夫人と画伯
文化勲章授章式

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